環境負荷を減らす物理的病害虫防除技術:粘着シート・トラップの導入ガイド
はじめに
農業において、病害虫対策は安定した生産を行う上で欠かせません。しかし、化学農薬の使用は環境への負荷や残留リスク、害虫の薬剤抵抗性発達といった課題を伴う場合があります。こうした背景から、化学農薬への依存度を減らし、環境に配慮した持続可能な病害虫管理技術への関心が高まっています。
その中でも、比較的導入が容易で効果が期待できる物理的防除技術の一つとして、粘着シートや各種トラップの活用が挙げられます。これらは特定の害虫を物理的に捕獲・駆除することで、化学農薬の使用量を削減し、環境負荷を低減することに貢献します。本稿では、粘着シート・トラップを用いた物理的病害虫防除技術について、その概要から導入方法、メリット・デメリット、具体的な活用例までを詳しく解説します。
物理的病害虫防除技術としての粘着シート・トラップ概要
物理的防除とは、病害虫の物理的な行動や生理機能を利用して、機械的にあるいは物理的な手段によって密度を低下させる技術です。粘着シートやトラップは、害虫の視覚的な誘引性(色や形状)や嗅覚的な誘引性(誘引剤)を利用して集め、粘着面で捕獲したり、構造的に逃げられなくしたりすることで密度を抑制します。
粘着シート
特定の色のシートに粘着剤が塗布されたものです。多くの害虫は特定の色彩に誘引される性質があります。例えば、アブラムシやコナジラミは黄色、アザミウマやハモグリバエは青色、アザミウマの一部やタネバエ、タネバエ類は白色などに誘引されることが知られています。これらの色彩を利用して害虫を誘引し、シートの粘着面に付着させて捕獲します。主に施設栽培で利用されることが多いですが、露地栽培の一部でも使用されます。また、害虫の発生状況を把握するためのモニタリングツールとしても広く活用されています。
各種トラップ
粘着シート以外の物理的トラップには、以下のようなものがあります。
- 光トラップ(電撃殺虫器など): 害虫の走光性(光に集まる性質)を利用して誘引し、電撃などで駆除します。主に夜間に活動する飛翔性害虫に有効です。
- フェロモントラップ: 害虫の性フェロモンや集合フェロモンといった化学物質を誘引剤として利用し、特定の種類の害虫(特にオス成虫)を集めて捕獲します。対象特異性が非常に高いのが特徴です。
- 色+誘引剤トラップ: 色彩による誘引と、特定の害虫が好む匂い(餌の匂いなど)を組み合わせたトラップです。対象害虫の捕獲効率を高めます。
- 物理的構造トラップ: 落とし穴式や、一度入ると出られない構造を持つトラップなどがあります。
本稿では、特に広く利用され、導入しやすい「粘着シート」および「色+誘引剤を含まない簡易トラップ」に焦点を当てて解説を進めます。
環境負荷低減への貢献
粘着シートやトラップによる物理的防除は、主に以下の点で環境負荷の低減に貢献します。
- 化学農薬使用量の削減: 物理的に害虫を捕獲・駆除することで、化学農薬による防除の頻度や使用量を減らすことができます。これは、周辺環境への農薬ドリフト(飛散)リスクの低減、土壌や水質への影響緩和につながります。
- 薬剤抵抗性発達の抑制: 繰り返し化学農薬を使用することで発生しがちな害虫の薬剤抵抗性発達を抑制できます。これにより、将来にわたって化学農薬の効果を維持しやすくなり、結果的に長期的な環境負荷低減につながります。
- 天敵や有用微生物への影響が少ない: 化学農薬と比較して、目的とする害虫以外の生物(天敵、授粉昆虫、土壌微生物など)への影響が少ない傾向があります。生態系への配慮という点で環境負荷低減に貢献します。
ただし、トラップによっては誘引剤に化学物質を使用する場合があり、また、使用済みの粘着シートやトラップは産業廃棄物として適切に処理する必要があります。導入にあたっては、こうした点も考慮することが重要です。
導入のメリット・デメリット
粘着シート・トラップの導入には、以下のメリットとデメリットが考えられます。
メリット
- 化学農薬削減: 直接的なメリットとして、化学農薬の使用量を減らすことが可能です。
- 薬剤抵抗性の回避: 物理的な捕獲のため、害虫が抵抗性を獲得する心配がありません。
- 安全性向上: 収穫間際まで設置可能な場合が多く、農薬使用による収穫前日数(PHI)の制限を受けにくいため、より安全な農産物生産に貢献できます。また、散布作業に伴う作業者の暴露リスクも低減されます。
- モニタリング機能: 害虫の発生時期や密度、圃場内での分布状況などを把握するためのモニタリングツールとして非常に有効です。これにより、化学農薬を使用する場合でも、必要な時期に適切な範囲で散布するといった効率的な防除計画を立てやすくなります(総合的病害虫管理(IPM)の一環としての活用)。
- 比較的導入が容易: 大規模な設備投資が不要な場合が多く、既存の栽培体系に比較的容易に組み込めます。
デメリット
- 対象害虫の限定: 粘着シートや簡易トラップは、特定の色彩や構造に誘引される飛翔性害虫には有効ですが、土壌中に生息する害虫や、特定の植物上からほとんど移動しない害虫には効果が限定的です。
- 高い密度抑制効果には限界: 大発生した害虫を、粘着シートやトラップ単独で完全に駆除し、作物への被害をゼロにするのは難しい場合があります。あくまで密度抑制やモニタリングを主目的とすることが多いです。
- 設置・管理の手間: 圃場全体にわたって適切な数や間隔で設置し、定期的に捕獲状況を確認したり、いっぱいになったシートやトラップを交換したりする手間が発生します。
- コスト: シートやトラップ自体の資材費、設置・交換に伴う労力コストがかかります。
- 物理的制限: 強風で倒れたり、シートに土が付着したりするなど、設置環境によっては効果が低下する可能性があります。
具体的な導入事例と手順
粘着シートやトラップの導入は、栽培する作物、主な対象害虫、栽培環境(施設/露地)によって最適な方法が異なります。
導入手順の例
- 対象害虫の特定: まず、圃場で問題となっている、あるいは発生が懸念される主要な害虫を特定します。過去の発生状況や地域の情報を参考にします。
- 適した種類と色の選定: 特定した害虫に最も誘引効果の高い粘着シートの色やトラップの種類を選定します。メーカーのカタログや推奨情報を参考にします。例:コナジラミ・アブラムシには黄色、アザミウマには青色。
- 設置場所と高さの決定: 対象害虫の生態に合わせて、効果的な設置場所と高さを決めます。
- 施設栽培: 通路際、出入り口付近、天窓や側窓付近など、害虫が侵入しやすい場所に集中して設置すると効果的な場合があります。また、作物の上部を飛翔する害虫であれば作物の生育に合わせた高さに、下部を移動する害虫であれば地面近くに設置するなど、対象害虫の行動圏に合わせます。
- 露地栽培: 圃場の外周部、風上側、発生源となりやすい場所などに設置します。作物の上部に出るように支柱などで設置します。
- 設置密度の決定: 防除を目的とするか、モニタリングを目的とするかで設置密度は異なります。モニタリングであれば比較的少ない数で圃場内の複数箇所に設置し、防除を兼ねる場合はより高い密度で設置します。メーカーの推奨や過去の経験に基づいて決定します。
- 設置時期と交換頻度: 害虫の発生予察情報などを参考に、発生初期に設置することが重要です。シートやトラップの粘着面にゴミや虫が多数付着して捕獲能力が低下する前に、定期的に交換します。交換頻度は、害虫密度や環境条件によって変わりますが、週に1回から数週間に1回が目安です。
- 設置後のモニタリング: 設置したシートやトラップを定期的に確認し、捕獲された害虫の種類と数を記録します。このデータは、害虫の発生推移や圃場内での分布を把握するために重要であり、今後の防除計画(追加の物理的防除、天敵導入、あるいは必要最小限の化学農薬散布など)を立てる上で役立ちます。
事例
- 施設トマト栽培でのコナジラミ対策: 黄色粘着シートを施設内に吊るし、コナジラミの発生を抑制。同時に発生状況をモニタリングし、天敵導入や局所的な農薬散布の判断材料とする。
- 露地キャベツ栽培でのアブラムシ対策: 圃場外周部に黄色粘着シートを設置し、飛来するアブラムシの一部を捕獲。圃場中央部での発生密度上昇を遅延させる。
- イチゴ施設栽培でのアザミウマ対策: 青色粘着シートと、アザミウマ用誘引剤を組み合わせたトラップを併用し、捕獲効率を高める。
これらの事例のように、粘着シート・トラップは単独で完璧な防除を行うよりも、総合的病害虫管理(IPM)の一環として、他の防除手段(耕種的防除、生物的防除、必要に応じた化学的防除)と組み合わせて活用することで、より高い効果と環境負荷低減を実現できます。
費用対効果と利用可能な情報
粘着シート・トラップ導入にかかる費用は、資材の種類、設置面積、密度によって大きく異なります。安価なシートから高機能なトラップまで様々な製品があり、初期投資は比較的抑えられることが多いです。しかし、定期的な交換が必要となるため、ランニングコスト(資材費と労力)も考慮する必要があります。
費用対効果を評価する際は、資材費や労力だけでなく、以下の点も合わせて検討します。
- 化学農薬費の削減額: 粘着シート・トラップ導入により削減できた化学農薬の購入費用。
- 作業時間の変化: 農薬散布作業が減る一方で、設置・交換・モニタリング作業が増える場合の全体的な作業時間の変化。
- 収量・品質への影響: 害虫被害の抑制により、収量や品質が向上する可能性。
- 安全性の向上: 農薬使用削減による残留リスク低減や作業環境改善といった、金銭換算しにくいメリット。
これらの要素を総合的に評価することで、費用対効果を判断します。
補助金制度については、環境保全型農業や化学農薬削減を推進するための国の事業や、地方自治体独自の支援制度が存在する場合があります。具体的な制度内容や募集期間は年度や地域によって変動するため、以下の情報源に問い合わせて確認することをお勧めします。
- お住まいの市町村の農業担当部署
- 農業協同組合(JA)
- 都道府県の農業改良普及センター
- 国の農業関連機関(例:農林水産省のウェブサイトなど)
相談先としては、上記の各機関に加えて、農業資材メーカーの担当者や、地域の先進的な取り組みを行っている農家グループなども参考になることがあります。新しい技術導入に際しての疑問や不安は、積極的に相談することで解消できる場合があります。
まとめ
粘着シートやトラップを用いた物理的病害虫防除技術は、化学農薬の使用量削減と環境負荷低減を実現するための有効な手段の一つです。導入は比較的容易であり、特に施設栽培や特定の露地栽培において、主要な害虫の密度抑制やモニタリングに効果を発揮します。
導入にあたっては、対象害虫の特定、適切な資材の選定、効果的な設置方法の検討、そして定期的な管理とモニタリングが重要です。これらの物理的防除技術を、他の持続可能な防除手段と組み合わせた総合的病害虫管理(IPM)の一環として位置づけることで、より高い効果と環境負荷低減の両立を目指すことが可能です。
初期費用やランニングコスト、設置・管理の手間といった課題はありますが、化学農薬費の削減、収量・品質の向上、そして何より安全で環境に優しい農業の実践という長期的な視点から、その費用対効果を検討する価値は十分にあります。導入に関する具体的な情報収集や相談は、お近くの農業支援機関を通じて行うことができます。
持続可能な農業への移行は一歩ずつ進めることが大切です。粘着シートやトラップの導入が、環境に配慮しながら安定した農業経営を続けるための一助となれば幸いです。